作家さん、こんにちは001 【渡久兵衛さん】

ちくネットが注目する、地元・筑豊の作家さんたちを、シリーズで紹介していきたいと思います。第1回目は、上野焼(あがのやき)の窯元である渡窯の、渡久兵衛さんをご紹介します。

 

渡久兵衛さん 

(わたり きゅうべえ/昭和4年生まれ/田川郡福智町上野)

 

Q.渡さんは、上野焼の開祖・尊楷さんから続く家系でいらっしゃいますが、そのことについて、若いころはどう言う風に考えておられたんですか?

  ちょっと一時期、窯を止めとったりもありましてね、それほどの意識することは無かったですけどね。まあこの仕事を始めるに至って、それからこの陶片がだんだん分かるに従ってね、やっぱりそれなりのもんが芽生えてきましてね。徐々に徐々にですよね。

Q.窯の復興が昭和39年ですね。

  うん、窯のほうはね、38年ごろから準備にかかりましてね、そしていよいよ煙上げたのは39年ですけども。まあ当時これ(陶片)の良さが分からんでね。だんだんだんだんとね、自分の技量がこう少しずつ上がっていったんでしょ、これの良さが分かるようになってね。そして、この陶片が、逆に私に語りかけてくれるようになったよね。

Q.窯を再興しようと思われたきっかけは何だったのですか?

  当時、私は勤めに出てましたよね。北九州まで。商事会社です。それでね、朝早いでしょ。それから夜も遅くなることもあるしね。ちょっと病気しとった関係もあって、ここの、自分とこで仕事ができたらちゅうのと。それと、だんだんやってるにつれてね、何か自分の体質ちゅうかなあ、好きになっていったね。まあ子どもの頃から、ここで生まれて雰囲気知っとるしね、よそ様の開いてる窯の轆轤(ろくろ)場に行っては、終日、眺めとったね。暇があると行って、病気しとる時もそんな出会いもあったし、何かやっぱり縁があったんですよ。昭和30年の、この釜ノ口の発掘の時もね、発掘作業見てました。その後ね、8年か9年後に自分でもね、こんなもんすると、その時は思いもしなかったですけど。

Q.窯を復興するにあたって、技術的なことはどうやって学ばれたのですか?

  技術的なことはね、ここら界隈の、そういう人たちがいっぱいおるじゃない。聞き行くよね。うるさい!って言われるぐらいにね。だってこんなの(陶片)見たって分かるわけないもんね、当時。それから、薬を作ることだって知らんし。ちょっとでも窯に従事したって人がおれば、その人に聞き行くしね。まあ、根掘り葉掘りねえ、そういうようなことでしたね。だから、自分以外は、すべて師匠だった。

  で、その頃からぼちぼちね、文献がね、本が出始めた。昔の人ちゅうのは意外とね、そういう本もなかったし、知らんかったですよ。還元焼成とか酸化焼成ちゅうようなことも、あんまり知らんかったね。ワシはもう人より遅れとるし、何か本があれば、見て、勉強して。そうやって吸収せんとね。

Q.上野以外のものを見る機会はあったのですか?

  これを始めて、39年にものが出たんですけど、さあ、始めた年にね、5月か6月だったなあ。隣に元気のいい兄弟がおったよね。今でもまだ元気にしとるけど、高鶴(こうづる)の元(げん)と淳(じゅん)ちゅうのが。もう日展に2、3度入選しとって、元気いっぱいやったよね。その兄ちゃんのほうの、元くんから、久留米で国際陶芸展がありよるちゅうて誘いがあった。それで車に乗せて連れて行ってくれましたよ。久留米の石橋美術館ですよ。そこでね、国際陶芸展があってね、たまげたなワシは。だってね、それまでここの田舎の焼き物しか知らんでしょ。それが、当時の一級の人たちの作品が、展示されとった。たまげたんですよワシは。本当、本物に接したちゅうか。こんな素晴らしいものがあるんかって(笑)。

  それからね、職人を当時もう雇いこんでてね、だって自分が作れんからね。有田の向こうの方の、長崎県佐世保市。三川内(みかわち)ちゅう所があるよね。磁器を作りよる産地、そこの職人を、縁があってね、来てもらってたんですよ。そして始めたんですけどね。でその人に、国際陶芸展の図録を見せてね、こげなんを作ってくれんかねって要求するわけよね、とんでもない話よね。職人にしたら有難迷惑だったと思うよ。それで、ああ、これはやっぱり、自分でしなきゃいかんかなあというような。

Q.そこで、ご自分で作るということを決意されたのですね。

  そうです。ところが、轆轤に入ってやってみると、なかなか土が言うこと聞いてくれんよね。これは無理か、ああ、俺には無理なんだなあ、向いてないなあと思うてね、まあ何度も轆轤を蹴とばして(笑)。もう子供も女の子が二人おりました、その時。息子はまだ生まれてなかったがね。生活がかかっとるでしょ。まあ大変でしたよ。

  そして、昭和41年だったと思いますがね、西部工芸展に入った(入選した)よねえ、どういうわけだか。その当時、隣の淳やら元の、刺激やらいろいろあって、西部工芸展に、第一回目から出したよね。それが入った。今ならとても入らんような作品ですけどね。それからまあ、いよいよ、これで生活していかないかんなあというのがあったよね。

Q.萩焼の坂倉新兵衛さんのところに通われたということですが?

  うん。昭和45年ごろからね、山口県の湯本の、坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)さんとこに、行くようになったの。その前にね、昭和43年か、田川の図書館があるでしょ、(当時は)古い木造のね。そこでね、ここら界隈の陶芸展をやったことがあるよ。先生はね、その展覧会やったときに講師に来ましたよ。そしてその時に、上野の熊谷さん、高鶴さん、うち、それから青柳さん、高田さん、それだけでした窯は、当時。そこに寄ってくださって、新兵衛先生がうちに寄ってね、縁が芽生えましてね。それで、うちは上野の、茶の湯の道具を作った窯だという経緯があるでしょ。是非これは、何とか茶碗を復活せないかんなちゅうことになってね。

  やっぱり人がものを作らせるんですよ。自分一人で出来るもんじゃない。いろいろな人のお陰でね。田川ちゅうのはね、非常に文化度の高い土地でしたよ、当時から。というのは、三井田川から、文化が直で、東京から入って来るでしょ。色んな面でですね、こっちの、赤池とか方城とか金田よりもうんと文化度が高かった。でその頃もね、絵描きさんがね、徳勝寺の横山群(よこやまぐん)先生、それから立花重雄(たちばなしげお)さんとか、石井利秋(いしいとしあき)さんとかね、絵を描く方々がね、多かったです。そういう人たちに刺激されてね、絵を描こうかっていう人も。

  ほんで私はね、その新兵衛先生に縁が出来たことでね、2、3か月に1回、作っては持っていってね、見てもらいましたよ。茶の湯の道具に関して、高度なんですよ、向こうは。そういうのが分かりだしてね。私の、始めた時の黎明期ちゅうかね。

Q.何年くらい通われたんですか?

  昭和50年に亡くなりましたんでね。5年ぐらい。まだ歳が60前やなかったかな、若かったんですよ。だけどもう、ものはね、あの頃先生が作ったのもありますがね、敵わんもん、どれも。あそこはすごかったですよ。ブームにもなりよったし、それと、茶碗作りにおいてはもう、どんどん、足りないくらい売れていくのよ。間に合わんくらい、作ってはどっどっどっど売れていくの。そんな時代でしたよ。ワシはまだ、そんな技量のほうがいっとらんから、しょうもないようなもんが、安くて売れていったんやけど、先生のは高くて売れていって。

Q.先生への恩返しという意味では?

  ワシは昭和49年にですね、日本伝統工芸展に初入選しまして、その時喜んでくださったよ。うん。茶碗じゃなかったけど鉢でね、それなりのものが、入選しましてね。はあー、嬉しかったね。天にも昇るような気持ち。先生も喜んでくださったもん。

Q.その後、連続して入選をされますね。

  うん。連続でね、入選したんです、4回。知り合いもびっくりしたんやない?ねえ。素人が、とっとっとっとっとって(笑)。それでも、ならどんどん順調に行ったか、そんなことはないね。やっぱり足踏みがあってみたり、なんだかんだで、現在があるんですけど。でそのうちに、直方の吉田浩通(よしだひろみつ)さんとも仲良しになるし、何か勉強会を始めたらどうかなあちゅうことで、筑陶会を始めたんです。

Q.筑豊地区の陶芸家による勉強会として、「筑陶会」という会を立ち上げられたわけですが、どちらから話を持ちかけられたんですか?

  持ち掛けてきたのはね、まあ、そういう機運はあったんです。上野は上野でね、熊谷さん、高鶴さん、私、青柳さん、高田さん、白川さん、当時は6軒ありました。それで、時に中央から先生に来てもらったり、酒もよう飲みよったりしたんです。ところが、よその吉田さんとか、糸田の藤本虎兵(ふじもととらへい)さんやら、ちょっと上野とは違ったような人がおるでしょ、その人たちとも仲良しになって。で、吉田さんがやっぱり言い出したね。吉田さんはグループがないでしょ。離れとるから。やっぱり何かでこう、グループ作ってちゅうか、同志を募ってね。勉強会を、というような気持ちやったんですね。私もそういう気持ちがあったんですよね。そうだから、話があったらばっと、すぐ飛び乗った。30年前かな。

Q.昭和55年ですね。

  30年になるですね。すぐ作った、14、5名くらい呼びかけてね。現在は8人になってますけど、よう続いちょると思いますよ。そしてそれを作るときにね、ワシは言ったんだ。ただ、団子ばっかりがね、寄ってわいわい言うたってね、大した効果はないし、やっぱり本当に勉強する気になったら、中央からその道のトップの先生を呼んでね、費用かかるかもしれんけど、そして勉強会をせんと、そう大した効果は上がらんから、ということを申し上げた。

  当時、トップの先生と考えるとですね、吉田耕三(よしだこうぞう)さん。吉田先生を、呼んだらどうかということでね。吉田先生は茶陶も分かるし、その他一般の焼き物もね、新しい近代的なものも分かっとるし、それから、実際自分でも焼き物を作ってみたことがあるし。吉田先生は、荒川豊蔵(あらかわとよぞう)でしょ、最初焼き物の先生でついとるのが、それからその後が、川喜田半泥子(かわきたはんでいし)、そしてその後、田川市美術館でも展覧会やりました北大路魯山人(きたおおじろさんじん)、その3人の先生についとるんですよね。ということで、まあ今から考えても、人選に誤りなかったなあと思ってますよね。吉田先生がお元気だったから、30年続いたんですよ。

  毎年1回、夏に来て、講習があるでしょ。その日はみんなが持ち寄った作品を批評やら指導する、で明くる日は各窯に行って作品を見る。もう遠慮会釈ない批評するよね。一回だって褒められたことない(笑)、ここに来て。私はまあ変なこと言うなら、一回先生をぎゃふんと言わしちゃらな、そんくらいならないかんなって思いよった。

  そしたらね、あれいつやったか、もう最後ごろね、初めてね、渡くんの作品は、今までずーっと見てきたけど、良いと思ったことない、ちゅうて(笑)。ないけども、ないけども、って言い出したね、最後。そこで、初めてこうこうね、これは良い、うん、これは良いと。それで初めてね、いよいよ先生の、昔のあれで言うたら、免許皆伝とか言うやない、先生の目に、適うようになったかなーと思ってね、ようやく。

  うちの息子の作品もあるよね、ここに来てね、息子の作品についてもいろいろアドバイスがありましてね。ワシも晩年になってしもうたけど、今の状態なら、まだまだ数年はいけるかなあと思いますけど。

Q.吉田先生の指導も含めて、筑陶会で長くやってこられたことの意味は大きいですね。

  大きいですよ。大きかったと思いますよ。みんなでね、意見を。だっていろいろな会合があるよね、で一番楽しいのは筑陶会の会合ですよ。うん。もうみんな同じ職業でもあるし、それから、貧富ちゅうか、大体分かるやない、あんまり変わらんもん、みんな(笑)。そういうのもあるしね、もう気の置けないちゅうかな。楽しくもあるしね。一番良いグループですよ。

Q.焼き物をされている方は、なかなか手の内を明かさないものだと思いますけど、共有しあえるのは筑陶会ならではですね。

  うん、あのね。何かこう、壁みたいなことあるとね、会合で出すんですよ。そうすると、やいやいわーわー、それで解決するちゅうかね。そういうのがあるんですよ。自分の殻に固まってしもうて、もう一歩も出られんとかそういうのじゃない、で色んなこう、こうこうこうしたらいいんやない、ああそうか、ちゅう。そういう会に、成長したんでしょうね。それとあんまり、激しい、個性の強いのはおりませんよね。それとやっぱり、人的な構成が良かったんやない。派閥できる人数でもないしね。

Q.今の時代に、茶陶を続けていく難しさはありますか?

  やっぱり外からの理解者ちゅうか、内ももちろんですけど、それよりないと思います。さっきもちょっと、田川の人で、お茶屋さんが来てましたけど。生活様式がね、もう変わっとるでしょ、今はもう新しい住宅に畳が無くなった。朝もね、味噌汁と白ご飯と漬物と、それに付随するもので、大体それが日本の伝統的な、朝の食事ですよね。それがもう薄らいできよるちゅうわけ。今の人はパンでしょ。パンと、ミルク、コーヒーと。もう日本の伝統食が薄らぎようちゅうわけよ。そして、どちらかいうたら肉の食事がだんだん多くなってきよる。それで、茶の湯のあれも薄らぎよるちゅうわけ。

  うちはまだね、朝パン食じゃないです。味噌汁と、白米と、漬物と、まあ諸々のもので。それからこう始めるんです。もうほとんど畳の間ですよね。

Q.生活スタイルが変わってくると、焼き物に求められるものも変わってきますか?

  変わってくると思いますよ。何つっても、生活陶ですからね、焼き物ちゅうのは。やっぱり生活に関わりのあるものしか売れませんよね。

  一時期ね、まだ高度成長期、高等学校出るとね、すぐみんな女の子はね、お茶とお花に、ひょっと入りましたもん。もうその人たちがだんだん高齢化してね、お茶の先生も高齢化して、それで後が続かんみたい。それと男性が、茶の湯に行かんよね。仕事でしょ、でゴルフか。お茶をせんから、焼き物も分からんよね。分からんやったら買わんよね。きれいやなあ、かわいいなあちゅう、そういうもの作りよる人は売れていきよるね。そういう志向で作る人は売れるし。

Q.焼き物も時代によって変化するとは思いますが、すべてがそういう流れになってしまうと、伝統も薄れてしまいそうですね。

  うん、そうですね。やっぱりね、茶の湯、お茶、やっぱり長いことこれで日本の文化ちゅうのは出来てきたんですよ。陶器なんかもそうでしょ、お茶の道具でね、日本人はよその民族に比べると、うんと、その血を引いてますからね。分かる人は比較的多いんですよね。それはやっぱり茶の湯の文化が大きく寄与しとったもん。これはやっぱりよその国に無い日本の伝統としてね、ここで醸してきたんですよ。中国やら韓国の技術で入ってきて、そしてここで、日本で花開いた文化だと思うよ、ねえ。一朝一夕で出来たわけじゃない。

  この文化ちゅうのはね、やっぱり大切に、次世代に伝えていかなきゃねえ。簡単に続いてきたわけじゃないんですよ。伝統文化ちゅうのは、本当に大切に、残していってほしいなあっていう気がします。また残してもいいようなね、価値のある、文化だと思います。まあ自分がそうやってるから、そういうのもあるし、それから、まったく、そんな関係ないよちゅう人がおってもいいし、いろんなあれでね、競い合いながら、そして守っていくなら。

Q.渡さんは、最初から茶陶一筋だったのですか?

  私はやっぱり茶の湯の茶碗を目指しましたよ。茶碗はとにかく、それは根幹として。そしてそれに付随するものがあるでしょ、それは第二義的に考えました。

  で息子がぼちぼちこう、少しやり始めた。彼は彼なりに、俺のほうがいいわいと思いよるかもしれんけど、まだ、それほど作ってないもんね。

Q.ヤケ釉など、独自の釉薬を開発されてきたわけですが、最初の釉薬への取っ掛かりは大変でしたか?

  うん、最初そうですよ。だって薬のことなんて分からんよね。色々聞いてね、ストップ!て言われたことあるよ。もうそれ以上ダメちゅうて言われたこともある。今はもう、本がいっぱい出とるでしょ。専門書まで。それで今からの人はやりやすいよ。あの当時まだなかったんよ、本が。一応、薬はこう、基本形が分かるとね、後は、応用じゃないですか。ほんでまあ、色々こう、テストしてみてね。とにかくね、ここ30年の間に、ものすごい進歩ですよ、窯道具から、薬のことから。

  今考えてみると、窯が非常に進歩したもんだから、歩留(ぶど)まりが良くなったですよね。そこそこのものはいっぱい出来るようになった。これ(陶片)の時代はそうじゃないもん。だから、高かったと思いますよ、当時は。もう買えんもん、庶民は。一部、殿様とかあの辺の人たち、それから富裕層しか、買えん、手を出せない世界で。

  今は電気窯があり、ガス窯があり、灯油窯もありね。人工的に、炎だって変えられるし。そして、温度計がありますよね。デジタルちゅうてから。あれいいよねー、参考になるよねー。メーター機がついた温度計も、あれが出来た時だって大変すごいなと思ったけど。それでこれ(陶片)に行くんよね、頭が。こんな何もない時代に、ようこんなものが焼けたんだなあと思って。どのくらい時間がかかったか知らんけど、ロスも多かったと思いますよ、

Q.焼き物を続けてこられて、焼き物に対する考え方に変化はありますか?

  もうやっぱりあれですね。焼き物はやっぱり自分の、全部とは言えんけど、ものの考え方が、焼き物から考え始めたかなあ。

  それとやっぱり、焼き物を介してですね、知った人が増えるでしょ。焼き物の好きな人、遠くからもね、友人だとか知己が増えてくるでしょ、そうするとそっから、何か頼みごとをするにしてもね。だから本当に、好きな道で、そして好きな人がそこでまた出来てね。やっぱり焼き物のおかげ。

Q.目下取り組まれていることはありますか?

  うん。やっぱり、この歳ですからね、いよいよ自分のライフワークのね、茶碗を少し、もうちょっと、磨きちゅうか、高めないかんなあと。

Q.最近では息子さんがライバルともおっしゃっていましたが。

  ははは(笑)。まだね、まだ、私の目から見ると、まだまだ。(壷などの)大物はもう敵(かな)いませんよ。大きいものはね、もうちょっと敵いません。でもまだ、小さいものにいたってはね、この茶の湯の道具だとか、小さいものなら、まだ私のほうが、まだ。息子に言い聞かせるとこはあります。

Q.親子で一緒にされているというのは、良い刺激になりますか?

  そうですね。うん。やっぱり刺激ちゅうかね、元気をもらいますよね。わりと跡継ぎがおらん窯は多いもんね。子どものいない人で、技量の高い人がおるったいね。しっかりした技量を持ってて、子どもに跡を継がせるといいのになあと思って。思うけど、残念ながら子どもがいない。そうしてみるとうちは、数少ない、後継者がおるわけだから。

 

(取材日 2010年1月28日)

(本インタビューは、田川市美術館で平成22年に開催された「筑陶会 八人展」に合わせて行われたものです)

6 Comments

  1. あれれ?
    ちょっと長いのをテスト投稿してみましたが、Qのところとか、文字色を変えたのに
    反映されてないですね。
    それと、トップページに表示される文字数を短く制限するには、どうすれば・・・。

    もうちょっと試してみます。

  2. 本当ですね。投稿するページに入ってみたのですが、職場のパソコンが悪いのか、表示がきちんとされずに、左は全部切れていて、右側と真ん中が重なっていて、見にくいです。パソコンで何か設定をしたらよいのですかね??

  3. キタグチです!お疲れさまです!

    とくながさんへ>
    トップページを短くして続きはこちら。的にする場合はmoreタグを挿入。という者をいれるといいですよ!ちょっと編集してやってますので確認してみてください。
    あと文字色確かに変わってないですね….. ( ̄^ ̄ ;)ウーン

    ちょっと調べてみます!

    佐土嶋さんへ>
    ログインすると編集画面?が左側が全部切れて右側と真ん中が重なっている… 。
    画面のサイズが小さくて入りきれないって現象が起きているのでしょうか?
    編集画面がおかしいというのはあまり聞かないですが、その画面をもっと使いやすくする事は確かできたはずです。あまりにも頻発するような事であれば直接お伺いして確認したあと対策を練らせていただきます

    お二人とも貴重な意見ありがとうございます!

  4. 徳永です

    キタグチさん、ご確認ありがとうございました。
    moreタグ、分かりました。試しに、一つ前の記事にも入れてみました。
    今後、記事が増えるにつれて、トップページも組み替わっていくと思いますが、
    あらかじめ見出しになる部分を、記事の頭に持ってくるのがよいでしょうね。

    それから、編集ページは私のパソコンでもおかしいですので、田川のシステムの問題?
    佐土嶋が書いているように、左側が切れてますし、右側もぜんぶ表示されていないようです。
    何より、「公開する」というアイコン(たぶん)が表示されていないので、
    最初、投稿するのにどこをクリックすればよいのか迷いました(笑)

  5. とくながさん>
    了解しました少々困難かとおもいますがスケジュール組んで
    各美術館様の方に回らせて頂きたいと思います。その際に色々チェックさせていただきたいと思います
    よろしくお願いいたします

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