倉智憲夫の「樹間」

「樹間」1992年 油彩✕画布

美術館は、美術作品やそれに関わる資料・情報を集め、保存、研究、公開しながら、未来の世代に伝えていくという使命をもっている。故に地方の美術館では所蔵品同様に、その地の美術の歴史を調べ、現在の美術と向き合い、そして未来へ挑戦する精神へと紡いでいかなくてはならないのだ。

20年ほど昔、このことを筆者に熱く語ったのが飯塚市の画家、倉智憲夫さん(1924−2004)であった。「碓井(現嘉麻市)には美術館があるけど飯塚には美術館は無いんよ。飯塚とか碓井とか言わんで、嘉飯山(現在の嘉麻市、飯塚市、桂川町)の頑張ってる絵描きを『凝視』せないかんよ。それが嘉飯山にたったひとつしかない美術館のあんたの仕事ばい。」と飯塚市の居酒屋のカウンターで倉智さんが提唱したのが「嘉飯山の画家たち」という概念だった。後にその概念を具現化させた展覧会を実施するに至り、「嘉飯山の画家たち」をそのまま展覧会の名称にした。この名称は市町村合併を経て、この地域が嘉飯桂と称されるようになった今も固有名詞として変更せずにいる。

最初の「嘉飯山の画家たち展」(2003年開催)には倉智さんの作品を展示させていただいたが、当時体調を崩されていたため会場でお会いすることはできず、翌年の第2回展を目前に亡くなられた。会場を展覧いただけなかったことが悔やまれる。

倉智さんは現在の大韓民国江原道高城郡で生まれている。初等・中等学校教員の養成を目的とした官立春川師範学校で美術を専攻し、卒業後も同地で教鞭を執った後に戦地へ向かった。戦後の画家としての活動は、復員して本籍地である桂川町へ身を寄せてからはじまる。1950年には伊岐須小学校の美術専科教員として教員に復職。生活も安定し、後に会員となった自由美術協会など中央画壇へと発表していった。その一方で地元での大人や子どもたちなどへの絵画指導や飯塚美術協会での活動と地域の美術への関わりも大きい。また地域政治への関心も強く、県内初となった政治倫理条例制定を飯塚市に働きかけた市民団体「明るい町づくりの会」会長を務めるなど社会全体を凝視するかのような倉智さんであった。

アトリエにて 1971年撮影

アトリエにて 1971年撮影

紹介する「樹間」は1971年に日本文化交流使節としてソビエト、ハンガリー他ヨーロッパ各国を歴訪し、帰国後に制作した作品である。特に東欧での見聞は、渡欧報告個展や、その後の作品の中に描きこまれ、また帰国翌年に自由美術協会を脱退するなど深層的な心理にまで影響を与えたものであった。

今年の夏、12回を数える『嘉飯山の画家たち展』を開催し、嘉麻市、飯塚市、桂川町において活動する作家を紹介する。会場で嘉飯山の今を美術の視点で凝視していただきたい。

展覧会は7月2日(土)〜7月31日(日)に嘉麻市立織田廣喜美術館で開催。

(織田廣喜美術館・有江俊哉)

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