齋藤博之の「死の影の兵士たち No.28」

心の奥に刻んだ悪夢

 

目の前にいた兵士の姿をモデルに描写したかのような一枚。これが終末期の病床でボールペンを使い描かれたものだと想像するには、精密な線とデッサン力が邪魔をする。

そんな斎藤博之(1919~87)のペン画は、百合子夫人が見舞いのドアを最初に開けたとき、既にベッドの上でペンを走らせていたという。夫人に気付くとペンを止め、そそくさと新聞の下に隠すそぶりをし、没後に整理するとその数は百余葉を数えた。後に夫人が「死の影の兵士たち」と名付けたシリーズである。個別には作品名ではなく、それぞれに与えられた番号が作品名となっている。

旧満州国奉天市(現在の中国瀋陽市)で生まれた斎藤は、39年に上京し帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)洋画科に入学。師事した彫刻家の清水多嘉示の薫陶を受け、学んだ美術解剖学によるデッサン力が、繊細な線で描かれた兵士の姿にも生きている。

しかし、その解剖学は戦地において飢餓をしのぐために上官の命令で軍馬や野生馬を食用に解体させられることに生かされたことは皮肉だ。復員後は「馬ほど美しいものはない」と語り、終生のテーマとして美術解剖学を正しく生かし、馬の連作をキャンバスの上に描いた。

馬のほかに描いた連作に屈強な裸体がうずくまるように座る「人間坐像」がある。顔は下を向き表情こそ読み取れないが、生に対しての人間の宿命的な不安や焦燥と闘った苦悩を量感豊かな正面を向いた人物が醸し出す。また、本業の傍ら絵本の挿絵も多く手がけ、71年には絵本「しらぬい」で第2回講談社出版文化賞絵本賞を受賞した。しかし、画壇と呼ばれる場所と距離を置いて孤高の道を選び、都内のアトリエで、後年は鎌倉のアトリエで自由に制作を続けた作家であった。

戦後さまざまな戦争論議で世が騒がしくなる中、斎藤は絵描きには記録する義務があるはずだと語るも、戦場での記憶についてつづった文章は淡々としていた。しかし、絵描きとして描かずにはいられなかった「死の影の兵士たち」は、それまでの作品とは明らかに一線を画し、終戦を知るまで彷徨したレイテ島(フィリピン)沖の小島カプールでの悪夢の日々を鮮明によみがえらせている。

齋藤博之

齋藤博之

細い線がはうように白い紙の上で描いた兵士の像を、前衛戦争美術に明るかった美術評論家ヨシダ・ヨシエは「描かれているのは苦悩にのたうつ肉体の線だが、そこで画家がたどっているのは崩壊する肉体を内がわから抽きだすまなざしの集中だ」と評した。

心の一番深いところに刻み込まれ、生涯忘れ去ることができなかった「死の影の兵士たち」の姿を残して斎藤博之は永眠した。斎藤の描いた苦しい記憶の「死の影の兵士たち」と対峙(たいじ)することは、先の戦争の悲惨さや苦しみをただただ視覚的に知ることではない。今を生きる私たちは、斎藤博之をはじめさまざまなかたちで戦争を体験された方々が、伝え残そうとした未来にいるということを確認することなのだ。

(織田廣喜美術館・有江俊哉)

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