宮崎静夫の「時の影」

消せない戦争の記憶

今回紹介するのは熊本市の画家、宮崎静夫さん(1927~2015)の「時の影」である。この作品は2001年に当館で開催した「絵を描く俘虜(ふりょ)宮崎静夫展」に出品したもので、会期後に宮崎さんから寄贈を受け、所蔵している。

まず目にとまるのは画面中央につるされたカラスの姿。そして背後に描かれた、凍りつくような満州(現中国東北部)の大地と空にセピアの単調な色調で浮かぶ軍服姿の青年たちへと引き寄せられる。

しかし、年端もいかないあどけなさも感じさせる彼らは兵士ではない。彼らは38年から45年までの間、国策として日本内地の青少年が満州国に開拓民として送り出された軍満蒙開拓青少年義勇である。そしてその群像の中に熊本県小国町の高等小学校を卒業したばかりの当時15歳の宮崎さんの姿があるのだ。

王道楽土」「五族協和」という満州国建国の理念、そして極寒と飢えの苦しみ。そのはざまで生きた宮崎さんは、45年に満州で17歳となり、そのまま現地で関東軍へ現役志願するも間もなく終戦を迎え武装解除、捕虜として抑留された。その後4年間シベリアで捕虜としての苦難を味わい、生涯消えぬ悪夢のような記憶を心に刻んだのだ。

復員後、郷里の小国へ戻り炭焼き、土木などの仕事の傍ら通信教育で美術講座を受講し再起した宮崎さんは、熊本市内の肖像画師後藤松月の門をたたき、生計のために肖像画を描くことで画力を身につけていった。

水害で一時閉鎖されていた海老原喜之助(1904~70)の画塾が、57年に熊本市内に「第2次海老原美術研究所」として開設されると直ちに入所、海老原に師事した。海老原の勧めで絵画グループ「世代会」に参加し制作を重ね、人間の悲哀をドラム缶に託したシリーズを発表、シェル美術賞、熊日総合展などで受賞を重ねていった。

68年、パリにアトリエを移していた海老原を訪ね渡欧。ルーブル美術館などへの日参と街角でデッサンの日々であったが、限られた時間を考え、描くことよりも「見る」ことに徹した。先人たちの仕事を目に焼き付けるように古典を中心に美術館、展覧会、寺院、遺跡などフランスをはじめ欧州各国を巡り1年間の旅を終え帰国した。

実は、この旅こそが後の宮崎さんの仕事を導いていったのだった。欧州で見た古典様式になぞらえながら模索し静物を描きはじめ、70年に赤いユリをモチーフにシベリアの友の墓を描いた「夏の花」を発表。以後の仕事は一貫してシベリアと満州の記憶と向き合い描かれてる。

晩年の宮崎静雄さん=自宅アトリエにて

晩年の宮崎静雄さん=自宅アトリエにて

自身の人生を夢幻のようだったと振り返りつつも、「疼(うず)きとなって残るのは、満州・シベリアという、骨深く刻まれた戦争の記憶である」と語った宮崎さんだが、遺骨はシベリアの大地に散骨してほしいと久子夫人に託したという。レクイエムともいえる作品群を描き続けた宮崎さんの魂は、多くの友との消せない記憶が眠るシベリアへ向かっている。

織田廣喜美術館・有江俊哉

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