千田梅二の「女坑夫」

「女坑夫」1956年、木版、紙

生命の強さ、輝き表現

筑豊の美術館にとって、炭鉱の歴史とそこで育まれた文化は、あまりにも重要な意味を持つ。言わずもがな、筑豊の近現代の歴史は“ヤマ”とともにあった。明治20年代を境に開発が進み、交通も急速に発達。映画館や劇場など、娯楽施設も次々と誕生した。活気づく炭鉱町に全国から人が集まり、いっそう町は変化していった。ヤマで働く人もそうでない人もその影響下で生活していて、つまりそれは筑豊の近現代芸術と炭鉱という存在が強く結びついていることにつながっている。

さて、今回取り上げるのは千田梅二(1997年没)の木版画作品「女坑夫」である。脂肪と筋肉をたっぷりまとった、たくましくもなまめかしい肉体が、太く力強い線で表現されている。大きなてぼ(背負い籠)を背負って坑道を上がる女坑夫の凛とした表情。坑内を連想させる漆黒の背景が、余計に彼女を煌々と照らし出す。この女性の姿には、過酷な炭鉱労働の現実だけでなく、そこで生きる人々の生命の強さやきらめきが映し出されているように思えてならない。

46年、26歳の千田は水巻町にあった日本炭礦高松第一礦業所(通称日炭高松一坑)で炭鉱労働者として働きはじめる。中国で終戦を迎え、引き揚げて故郷の富山へ帰ると実家は焼けており、東北や関東を転々として辿り着いたのがこの地だった。少年期から絵画に熱中し、出征以前には洋画家の中川一政に師事したこともある彼が、初給料で買ったのは絵の具だったという。

労働の合間に作品を制作する千田のもとに、同じく炭鉱労働者として働き、のちにルポルタージュ作家として知られる上野英信が現れる。寮の機関紙『労働藝術』の挿画制作に誘うためだったのだが、これを機に千田は量産が可能な木版画の制作を始めた。

その後労働者の手による数々の機関紙の表紙や挿画を手がけ、更には、絵ばなし『せんぷりせんじが笑った!』、厳しい労働の合間に慰みで歌われてきた詩に絵を付けた『炭坑仕事唄板画巻』を自主制作するなど、労働者とその家族に寄り添う作品を生み出した。彼の率直で、力強くもあたたかい表現は、多くの共感を生んだに違いない。

製作中の千田(1982年頃か?)

製作中の千田(1982年頃か?)

しかし、58年、炭鉱合理化の波に加えて、体も壊していた千田は富山へ帰郷する。炭鉱での生活はおよそ10年と短いものではあったが、上野の存在やこの地での人と人との繋がりは、彼の心を掴んで離さなかった。そして80年、還暦を機に再び筑豊に戻り、かつての仲間たちとともに暮らし始めるのだ。

「女坑夫」、そして千田の筑豊への思いを見るに、激動の時代と厳しい労働環境に翻弄されながらも、確かにそこには人生の喜びがあったのだということがわかる。筑豊の美術館のコレクションからは、苦しみだけでなく、喜びや親しみ、“ヤマ”の様々なありようが見えてくる。

4月5日~6月19日、直方谷尾美術館で開催される「石炭の時代展」に「女坑夫」が出品される。この機会にぜひご覧いただきたい。

(敬称略)
(田川市美術館・石井茜)

*西日本新聞朝刊 「美術館モノがたり 筑豊3館収蔵品から」平成28年3月19日(土)掲載分

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.